Concept

ドーニング(Dawning)写真論

 

私の使っているドーニング(Dawing) のグラマー(あるいは新しいアスペクトに至る方法論)は、「映る (reflection)」「透過する (transparency)」「影 (shadow)」「連結 (junction)」そして「構図 (composition)」です。「反復 (repetition)」は特にこだわっていませんがこれもグラマーの一つと考えられます。しかし繰り返しのない静止画にもフローは在る、見えなかったアスペクトが見えているということが私の関心事でもあるので、「反復」は派生的なものです。

 

もう一つ、私が心得ていること。それはメタファーを極力使わないということです。ある「もの」情景を見て、新しい発見と驚きを経験しそのイメージに新しい意味を付加することは方法においては一貫しています。厳密にいうと「付加する」という表現は適当でないかもしれません。というのは、「もの」それがもつ様々な相、つまりアスペクトはすでにそこにあり、観者/主体のアプローチの仕方によってその隠れていたものが明るみにでる、または光りが当るといったものです。新しいアスペクトは既にそこに在ります。我々はものを見る時あるアスペクトを見ているといってもいいと思います。我々はその「もの」のなかに分け入り、そのものの中でちがった「音」を聴きます。違ったアスペクトを見ます。

 

では静止画における音楽とはどういうものでしょうか。絵(写真映像)に音楽を見ることはイメージそのものを見ることです。それは言葉を換えると、イメージそのものの定義に関わってきます。私にとってイメージとは。主体による言語的意味の読み取り、そして表象(リプレゼンテーション)としてのイメージと対象とのリファレンス関係の一致とは違った、どちらかといえば「現れ」そのものに近い、現象としてのイメージです。このイメージに留まることは絵のイメージを音楽として見ているのと近いのではないでしょうか。この状態は楽しいです。というのはいろいろなアスペクトが見えてくる可能性があるからです。魅力的だがゲシュタルトが未分化な状態、そしてあるものから別のアスペクトが開く瞬間、その瞬間と承前を写真に撮る、これが私の写真の醍醐味かもしれません。特にこの「現れ」の承前の状態は、アスペクトが揺れる、流動的で形が定まらない又はアスペクトが錯綜(重層)した状態で、フローというコンセプトが近いのではないかと思われます。

 

別の項でも言ったように、例えば散歩していて目の前に突然ぬぼーとした巨大なものが現れる。何がなんだか解らないが意識を捉えて離さない。もう少し歩を進めてみるとそれが教会の塔であったり、ビルの一角であったりする。今見えているものがある一定の形や言葉と一致する瞬間がある。なぁ~んだと思うが、その腑に落ちる前の茫洋とした状態が懐かしかったりする。

 

ある表現内容を思いついた時それを表す言葉を探す。しかしすぐには口について出てこない。出てきた時ほっとする瞬間がある。そのほっとする直前の悶々とした状態は結構つらいが、面白い連想や模索の持続の連続でもある。

 

見えているものが一定の形や言葉に落ち着く直前の一定期間の持続、この純粋ともいえる「今見えているもの」の状態は意味ははっきりしないがイメージそのものといえる。しかしその意味のはっきりしないイメージに留まるには、「何がなんだか解らない」状態を積極的に楽しむ姿勢が求められる。

 

我々の日常生活で、「もの」は意外な側面を見せる時がある。ある「見え」はその或る特定の側面(アスペクト又は風景相)だけが現れている状態である。我々がものを見る時、 そのものにそなわっている重層した相の一つ二つを 慣習などに従って選択している。この或る相を見る人それぞれのアプローチで開いていると考えることが出来る。それは又ある相を開くことで残り全ての相を閉じる行為を同時にしていることでもある。我々は複数のアスペクトが開いた曖昧な重層したアスペクトの状態にはなかなか留まれない。

 

「もの」それがもつ様々な相はすでにそこにあり、観者のアプローチの仕方によってその「今だ気づかれていない相」が明るみに出る。写真は不思議なものだ。ものと風景そして光の効果を「今だ気づかれていない相」をも含んで写し出す。しかしそれは又、観者の相の恣意的な切り取りでもある。

 

繰り返すと、イメージに留まること、このことは写真のイメージを音楽として見ているのと私にとっては同等である。実にこの状態は楽しい。いろいろな相(風景相•アスペクト)が明滅する空間だから。デジカメのシャッターを切ることはビートを刻む事、写真のそれぞれの有機的なつながりはリズムを形成する。あるものから別のアスペクトが開く瞬間、そしてその瞬間が又別のアスペクトのゆらぎを含んでいる。そしてその瞬間を、シャッターをビートとして切ることで写真に撮る、これがドーニングを使った写真のアプローチと言えるのかもしれません。

 

登崎 榮一